募金の謎

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「愛の募金にご協力を・・・」

というフレーズで募金活動をしている光景を見た。
人々が特に質問をするでもなく、チャリン、チャリンと小銭を入れていく。

謎である。
「愛の募金」といったって、曖昧すぎて、何処の誰に募金が使われるのか、まったく不明なのだ。

10円を落とすひともいれば、1000円を置いていく人もいるが、だいたい、目的のわからない募金に対して支払う金額の基準とは彼らにとって一体なんなのだろう?
また、どんな考えを持って「募金する」という判断をしたのか?

募金をした人に対して、一度聞いてみたいものだ。

「あなたは、何故、いま100円を募金したのですか?何のために?」

ほとんど”思考停止”状態、何となくなのだろう、と思う。

しかし改めて訊ねられれば、このように答える人が多いのではないだろうか。

「え?100円くらいなら、まぁいいか、と思って」

「何に対して、”まぁ、いいか” なのですか?」

「だって、募金しないで通り過ぎると、”冷たい人” だって思われるでしょ?だから、100円くらい置いておこうかな、って。10円だと ”ケチ” かな、と思うし」

つまり、こういうことだ。

目の前に”募金箱を抱えた面倒な現象”に遭遇してしまった。出来ればそのまま通り過ぎたいが、周りの目もあるし、自分の生活に影響ない額を少々募金して、お茶を濁しておこう。

以前の僕がそうだったのだ。

はっきり言ってしまえば、明確なる偽善である。

こんなことを考えて募金していると、また10メートル歩いた先に、同じ募金箱を抱えたオバサマ達が立っていて、苦笑いするハメになるのだ(笑)

ちょっと考えていただきたいのだが、自分の大事な人、例えば親や子供、パートナーなどが、命に関わる病気になってしまったとする。手術には大金が必要だ。

そんな時、「自分の生活に影響しない程度で、少しだけ自分で負担しよう」などと考えるだろうか?

そんなことはないだろう。おそらく、生活を省みず、必死で何とかお金を集めるに違いないと思う。
愛があれば、お金の問題など、小さいことなのである。

為替の考えで言えば、愛高、円安というところだ。

さて、先ほどの”愛の募金”だが、誰に愛を届けるのか?がハッキリすれば、行動が変わるはずだ。

「難病で、手術が困難な人のための募金なんです。●●という組織を通じて、確実にお届けします」

と詳細に説明すれば、確実に募金額はアップすると思う。

募金する側も、詳細を訊くべきだ。
「難病の人のため」「震災被害を受けた子供の教育のため」「介護施設の充実のため」・・・
誰に届くお金なのか、前もって知るからこそ、募金額が100円なのか、1万円なのか、自分で決定できる。

また募金は、全てのお金が相手に届けられるわけではない。そこには人件費がしっかりかかっているわけだから。
管理団体についても知る必要があると思うのだが、ここで述べたいことと違うので省略。

ところで何故これほどまでに、募金に関して無関心なのか、といえば、日本ではお金の教育が全くされていない、というところが問題なのだろう、と思う。

さきほど、「愛があれば、お金の問題など、小さいこと」だと述べたのだが、これはある状況において多くの人にとって真実であると思う。

ただ、この言葉尻だけをとらえて、

「よって、愛があれば、お金など不要」 とか、

「お金は大事ではない、まじめに働くことが尊いのだ」 とか、はたまた

「お金持ちは悪いやつだ、持たざるものが尊い」

などと全く飛躍した考え方を持った人が残念ながら大勢いて、僕もその影響を大きく受けて育った者の一人である。
が、これは完全にルサンチマン由来であって、お金やお金持ちの存在を歪めている。

僕自身がその誤った認識を持って育ってしまったので、いまだに新たな認識に到達しているとはいえないのであるが、

”愛高、円安” という例の通り、状況によって変化するが、お金は愛と同様に大事なものである。

だから、大事に育て、大事に使いたいと思うわけである。

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